『The Super Natural』A new vision of the unexplained の翻訳 |
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2016年 03月 31日
翻訳続き#87
これは、そうだと思いますが、Whitley が自分の映画の様な光景の中で理解していることであり、自ら認める様に、彼を驚かしてその光景が文字通り本当であると認めたくならせたほどのことである、しかしそれを十分信じる自分に完全になってしまうことは彼には決して出来ない。最初から、彼は、他に何かが起きているのではないか、このような光景は何か超次元からの複雑なサイキック射影であって単純な物質的実態ではないだろうと思い、そこで、Communion のまさに最初の数行、『暗闇からウインクを返す人間の心を持つ謎めいた存在』について考えていたのである。Whitley は、前章にあるあの冒頭の行を心に留める人は殆どいないのではないか、またどれほど多くの人が自分を、今日までも、一種の、自分のプライベートな映画スクリーンで見たことを文字通り信じている人間だと、思い続けているか、本当にイライラすると表現したことがあった。 ■
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by bbex243054
| 2016-03-31 15:11
| 科学
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2016年 03月 31日
翻訳続き#86
本質的に、このような個々の人達は、自分達が登場人物として割り当てられている社会や感覚を映し出した映画を見ていることに「覚醒する」。彼らは、映画の知覚対象としての自分達から抜け出して、振り向き、背後または上部から流れている映射光の様なものに気がつく。 Meister Eckhart (1260-1328)、中世の偉大な神秘家、はこのことを既に700年前 Edwin Abbot の Flatland13 (1884) からの一章の様に思われるちょっとした説教の中で認識していた。Eckhart は人間を神聖なものにする内なる光りと、彼が永遠の『今』と名づけた空間と時間を越えた力を説いている。彼は、『この光りは、』と書き始めて、『非常に力がありそれ自体が空間と時間に拘束されないばかりか、・・・この光りは空間と時間を取り去るのである。』と書いている14 。今日の現代の言葉で言えば、こう言えようか: この光りは空間と時間の外側に存在する意識の形態である。伝統的な宗教用語を用いれば、それは無限であり (空間を超越している) 不滅である (時間を超越している)。『この光りによって強力に捉えられた人は誰でも、』と説き始め、『生きている人間が壁に描かれた人と比較されるくらい遥かに秀でた別人になるだろう。』と説いている15 。「描かれた人間は2次元でのみ生きている」と今日だったら我々は言うだろう。彼は『平たい』生き物だ。光に照らされた人間は今や 3次元とか 4次元あるいはもっと高次元に生きて いる。その者は次元を越えている、と我々は言いたい。
13 訳註: 2次元の世界を描いて次元の本質を探求した多くの見方を与えている伝奇物語。正確には『数学フィクション』と呼ぶことが出来るけれどもサイエンスフィクションとしてしばしば分類されている (ウイキペディアから)。
14Maurice O’C. Walshe, trans. and ed., The Complete Mystical Works of Meister Eckhart (New York: Cross-road Publishing Company, 2009), p. 145. 15同上、Sermon 24 ■
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by bbex243054
| 2016-03-31 10:35
| 科学
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2016年 03月 30日
翻訳続き#85
しかしここに重要なことがある。神話文学の歴史は強く何かしらもっと多くのことを示唆する。勿論、プラトンの比喩の肝心な点は、我々は洞窟から這い出て外側の多次元の世界を見ることができるということ、多数の我々の仲間が決してその「光り」を見えずそれが存在することを否定続けたとしても、我々は本当にそれに近づけるということである。滅多にないが実際のケースでは、文化、宗教、そして感覚を表現する文字の伝えることに反して、個々の人達はあたかも、現実の何かをあるがままに知る、現実の何かにすらなる、こういったことが出来る人達の様に、非常に見える12 。 12 訳註 この文章はよく読まないと (あるいはいくら読んでも) 何のことか理解するのが難しいと思われます。しかし、この文章を読んでいる時に、Carlos Castaneda の本に詳細に記述されていることを思い出しました。それは、メキシコインディアンの sorcerer (Castaneda は、西洋人には shaman という言葉を用いていますが、彼の師匠 Don Juan は異議を唱えています。)達が『人間以外の姿に変身出来る』ことを述べており、Castaneda 自身それを実地体験しています。彼の偉大な師匠 Don Juan の語るところでは「人間の肉体の少し離れた所に真の人間がまばゆい光となって存在しており、ある方法を使えば、どのような姿にも変身することが出来る」と言っています。「物質を非物質化することに相当する」と言っています。そうすると、ここに記された文章の意味は『文字通りに理解出来る』ことになります。まさしく『現実の何かにすらなる、こういったことが出来る』は、このことを言っているのです! ■
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by bbex243054
| 2016-03-30 17:08
| 科学
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2016年 03月 30日
翻訳続き#84
「カットを入れること」は、人間には特殊な双対性即ち二重性があることを、少なくとも、人間の霊魂が機能していることとそれがこの世界をどのようにして知るのかを、考える様に要求することになる。ここで、結局、我々は、感覚を基にした自我のように我々に現れているもの(「what we know 知っているもの」)と、実際にそこにあるもの(「what is あるもの」)との間に明確な区別をするよう要求されるのである。カントと彼の後継者達は、人間は後者を決して知ることが出来ないと議論して来た。プラトンの洞窟の中にいる囚人のように、我々はすべて、感覚と脳からできた洞窟の床にしっかりと監禁されている。我々は、謂わば、頭蓋骨からできた洞窟の中に閉じ込められ、暗闇の中にできた平たい、感覚のこしらえた影をいまいましく見るだけなのだ—頭の内側のミニ映画。
訳註 プラトンの洞窟の譬え: 以下ウイキペディアからの引用(プラトンの『国家』(ポリティア)第 7 巻)。 「ではつぎに」とぼく(ソクラテス)は言った、「教育と無教育ということに関連して、われわれ人間の本性を、次のような状態に似ているものと考えてくれたまえ。 ―地下にある洞窟状の住いのなかにいる人間たちを思い描いてもらおう。光明のあるほうへ向かって、長い奥行きをもった人口が、洞窟の幅いっぱいに開いている。人間たちはこの住いのなかで、子供のときからずっと手足も首も縛られたままでいるので、そこから動くこともできないし、また前のほうばかり見ていることになって、縛めのために、頭をうしろへめぐらすことはできないのだ。彼らの上方はるかのところに、火が燃えていて、その光が彼らのうしろから照らしている。この火と、この囚人たちのあいだに、ひとつの道が上の方についていて、その道に沿って低い壁のようなものが、しつらえてあるとしよう。それはちょうど、人形遣いの前に衝立が置かれてあって、その上から操り人形を出して見せるのと、同じようなぐあいになっている」 「思い描いています」とグラウゴンは言った。 「ではさらに、その壁に沿ってあらゆる種類の道具だとか、石や木やその他いろいろの材料で作った、人間およびそのほかの動物の像などが壁の上に差し上げられながら、人々がそれらを運んで行くものと、そう思い描いてくれたまえ。運んで行く人々のなかには、当然、声を出すものもいるし、黙っている者もいる」 「奇妙な情景の譬え、奇妙な囚人たちのお話ですね」と彼。 「われわれ自身によく似た囚人たちのね」とぼくは言った、「つまり、まず第一に、そのような状態に置かれた囚人たちは、自分自身やお互いどうしについて、自分たちの正面にある洞窟の一部に火の光で投影される影のほかに、何か別のものを見たことがあると君は思うかね?」 「いいえ」と彼は答えた、「もし一生涯、頭を動かすことができないように強制されているとしたら、どうしてそのようなことがありえましょう」 「運ばれているいろいろの品物については、どうだろう?この場合も同じではないかね?」 「そのとおりです」 「そうすると、もし彼らがお互いどうし話し合うことができるとしたら、彼らは、自分たちの口にする事物の名前が、まさに自分たちの目の前を通りすぎて行くものの名前であると信じるだろうとは、思わないかね?」 「そう信じざるをえないでしょう」 「では、この牢獄において、音もまた彼らの正面から反響して聞えてくるとしたら、どうだろう?[彼らのうしろを]通りすぎて行く人々のなかの誰かが声を出すたびに、彼ら囚人たちは、その声を出しているものが、目の前を通りすぎて行く影以外の何かだと考えると思うかね?」 「いいえ、けっして」と彼。 「こうして、このような囚人たちは」とぼくは言った、「あらゆる面において、ただもっぱらさまざまの器物の影だけを、真実のものと認めることになるだろう」 「どうしてもそうならざるをえないでしょう」と彼は言った。 「では、考えてくれたまえ」とぼくは言った、「彼らがこうした束縛から解放され、無知を癒されるということが、そもそもどのようなことであるかを。それは彼らの身の上に、自然本来の状態へと向かって、次のようなことが起る場合に見られることなのだ。 ―彼らの一人が、あるとき縛めを解かれたとしよう。そして急に立ち上がって首をめぐらすようにと、また歩いて火の光のほうを仰ぎ見るようにと、強制されるとしよう。そういったことをするのは、彼にとって、どれもこれも苦痛であろうし、以前には影だけを見ていたものの実物を見ようとしても、目がくらんでよく見定めることができないだろう。 そのとき、ある人が彼に向かって、『お前が以前に見ていたのは、愚にもつかぬものだった。しかしいまは、お前は以前よりも実物に近づいて、もっと実在性のあるもののほうへ向かっているのだから、前よりも正しく、ものを見ているのだ』と説明するとしたら、彼はいったい何を示して、それが何であるかをたずね、むりやりにでも答えさせるとしたらどうだろう?彼は困惑して、以前に見ていたもの[影]のほうが、いま指し示されているものよりも真実性があると、そう考えるだろうとは思わないかね?」 「ええ、大いに」と彼は答えた。 ■
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by bbex243054
| 2016-03-30 14:21
| 科学
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2016年 03月 30日
翻訳続き#83
Whitley は、実体のない霊魂になると壁を通り抜けることが出来ることを示す様なコンタクト経験、まさに個人的経験のセットを我々に直面させようというのである。つまり、我々は現象学的カットの向こう側にそしてコンタクト経験の現象の外側にたっぷりあるかもしれないことに思い切って探求することになろうと、まったくこのことを言っているのである。 しかしその探求はまだだ。ここでは、始めに、その経験を経験として、即ち、純粋にテーマ(それは我々が思う以上に遥かに大きいものであることになるかもしれない)として現象学的カットを入れるだけで十分である。この単なる移動は直ちに、新しい知的かつ道徳的な寛容さで会話を提供することになろう。そのようにカットすることによって、我々は、結局、最も奇想天外な、信じられない、写実的ですらある性的状況に身を置いて、それらを真面目にかつ好意的に扱うことが出来ることになる、それらを文字通りにかつあった通りに扱う必要はなく。その実践は我々が、実際に現れて報告されていること、それを直ぐに信じるとか退けることなく、それに忠実になることを可能にしてくれるだろう。そのカットを入れることは、不可能なことについて不可能と思えることなく自由に語らせてくれるだろう。それは、馬鹿げたことだと思わせることなく最も驚くべき可能性を考えさせることが出来るだろう。 ■
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by bbex243054
| 2016-03-30 10:56
| 科学
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2016年 03月 29日
翻訳続き#82
実際、以下においてまさしくそれを示すものを探求しよう。それはまた、Whitley の目に見える姿の出現が外的環境の中でどれほど真に迫る体と声の光景、アンや他の人達が見て聞くことが出来る光景であったかを我々は知ることになろう10 。 10 訳註: この文章は一体何のことか分らないと思われるかもしれませんが、これは正に『分身』のことを言っています。即ち、一人の人間が同時に他の場所に存在して別のことを行うということです。そんな阿呆な、と思われるでしょうが事実なのです。Carlos Castaneda の本を読まれると、『ダブル』の人間が現れて Castaneda を唖然とさせることが記されていますし、禅の本『無門関』にもそのことが「公案」となっています。『無門関』35 の「せい女離魂」がそれです。この話は、中国に伝えられている話で『せい女という娘が、ある時魂と肉体が分離し、一人のせい女は外甥王宙と結婚し、もう一人のさい女は病床に臥していた所、その二身が再び合体した』(岩波文庫『無門関』140頁)というものです。『無門関』の本はたくさんありますが、山本玄峰老師の書かれた『無門関提唱』にもっと詳しく記されていた(と記憶していますが、その本は手許にもうありませんので確認できません)。ところで、日本の幕末期に活躍した知る人ぞ知る『山岡鉄舟』もその『分身』を使っていたのです!それに該当するものは:ウイキペディアによると、鉄舟自身が書いた記録「慶應戊辰三月駿府大総督府ニ於イテ西郷隆盛氏ト談判筆記」によると、後日、鉄舟は大総督府の参謀から呼び出された。鉄舟が出頭すると、村田新八が出てきて言った。「先日、官軍の陣営を、あなたは勝手に通って行った。その旨を先鋒隊から知らせてきたので、私と中村半次郎(桐野利秋)とで、あなたを後から追いかけ、斬り殺そうとした。しかしあなたが早くも西郷のところに到着して面会してしまったので、斬りそこねた。あまりにくやしいので、呼び出して、このことを伝えたかっただけだ。他に御用のおもむきはない」。鉄舟は「それはそうだろう。わたしは江戸っ子だ。足は当然速い。貴君らは田舎者でのろま男だから、わたしの足の速さにはとても及ぶまい」と言い、ともに大笑いして別かれた、とありますが、ここに書かれているのは山岡鉄舟の『分身』のことなのですよ!「うそだろ!」と云われるかもしれませんが、彼がしばしば『分身』を無意識的か意識的かに使っていたのは有名な話で、それを証言した彼の盟友 (名前を忘れましたが明治維新前後に活躍した有名な人物です) がいたのです。ちなみに山岡鉄舟は禅の達人で常人の境地を脱していた偉人です。
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by bbex243054
| 2016-03-29 16:36
| 科学
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2016年 03月 29日
翻訳続き#81
正に真面目に―それも正に真面目に悪く―多くの人が自分達の経験する世界に合わない異常な経験を直ちに無視したり悪いものと処理している。彼らは、それらを存在しない、幻覚だ、あるいは全く明らかに馬鹿げている、と宣言する。そうすることで、彼らはまたカットを間違える。カットを入れることはあらゆる経験を、それらが個々の精神にどれほど奇妙あるいはあり得ないと思われようと、それらの意味するか示すことについて道徳的なあるい知的な結論にすぐさま飛びつかず、真剣に受け取ることを意味する。 Whitley の経験や現代のコンタクト者のような極端な経験は、ここでは特に興味がある。我々はそれらが起きることを知っている。それらが何であるかは分らない。しかし、それらのパターン、歴史、話の構造、性的な次元、そして哲学的含蓄を研究し始める為にそれらが何であるかを知る必要はない。もしかしたら、そのように見えるということは、程度の差はあれそれらが実際にそのようなものであるのかも知れない。もしかしたら、それらは見えていない何か他のものを表わしているのかも知れない、この特殊に進化した神経組織を持つ肉体に包まれた自我にたいしては、本質上実際にあるがままには現れることの出来ない何かかも知れない。通常の映画で類似したものを表わそうとして、もしかしたら、誘拐経験の画面の写真が、どこか他から、映画館の暗室の外にあるどこかから、ディスプレー本体のどこか後ろから、または、お好みなら、ディスプレー本体のどこか上から、映し出されているのかもしれない。 ■
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by bbex243054
| 2016-03-29 14:51
| 科学
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2016年 03月 29日
翻訳続き#80
Otto は非常な長文で、主に聖書を素材にして、この神聖なエネルギー即ちエイリアンの存在することは肯定的または否定的、あるいは肯定的かつ否定的であるように経験されるかも知れないことを示している。神聖なものは実際に生理的、情緒的、そして霊的な、全範囲に渡る反応をもたらすかも知れない: 恐怖と予知、畏怖と神秘、薄気味悪さ、戦慄、崇敬と崇拝、エクスタシーと神秘のものとの合体。天使は神聖なものの表現であるが、悪魔と表現されることもある。 Otto はカントの非常に熱心な信奉者だった。彼は、人間は一般的に神聖なものの存在にそれが実際に真実そのままの姿に直接アクセスすることは出来ない、と考えていた。むしろその神秘の存在は、人間精神のカテゴリーやその機能を決定するところの文化によって、常にフィルターをかけられて形づけられている、と考えていたのである。Otto は、要するに、カットを入れていたのである、しかもフッサールと同じ時代の頃に。 これは貴方には不必要な会話の様に思われるかもしれませんね。またカットを入れるなんて容易く出来るのは当たり前のようにも思われるでしょうね。しかしです、実際ここの話は、極めて重要で必要なことなのです、大抵の人ではないとしても、多くの人はこのカットを入れるのは出来ないのです、特に、宗教現象のことになる時は。多くの人は自分達の信じている物は実際に存在するものだと固く信じている; 即ち、特別な経験あるいは地域社会の中で現れたものと、現実のケースかもしれない、あるいはそうでないかも知れないものとの間にカットを入れることが出来ないのである。なお、彼らは、自分達の文化や地域社会の宗教経験を共感して理解することが出来るだけである。だから彼らは神聖なものの出現を、例えば、エイリアンとか悪魔の出現と扱おうとするのとは全く違った仕方で、それは天使の出現だと言い張ることになる。「彼らはカットを入れることが出来ないのである。」 ■
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by bbex243054
| 2016-03-29 10:37
| 科学
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2016年 03月 28日
翻訳続き#79
The Numinous 同様の区別、目に見えるものとしての経験とそのような経験の対象または源としてあり得るものの間の区別が宗教研究の中心となっていた。そこでは学者達は、宗教的現象の真の評価についての判断を、彼らの知識にない宗教的経験、彼らの共有していない神話、そして彼らの所有していない信仰体系を研究する一つの手段として、「カットする」かまたは見合わせている。その理由は単純この上ない。一度そのようなカットをすると、原則的に、「如何なる」宗教的経験あるいは神話の世界も真剣にかつ好意的に、その解釈を特にしなくても、取り上げることが出来ることになるからだ、ただしそれは面白い小説を楽しむか空想科学映画を見るために不信仰を一時停止するようなことであるが。 ここで特に影響を与えているのは別のドイツ人教授、Rudolf Otto (1869-1937) の研究である。本書の中で、Whitley は、彼の他の本でもそうだが、自分の経験の雰囲気や感情を表現する為に『ruminous 神聖な』という言葉にしばしば訴えている。この言葉は宗教研究の本物の古典書の一つ The Idea of the Holy の中で Otto によって考案されたものである。『the holy』によって Otto は『the good 善人』とか『the ethical 道徳者』を意味したのではない。彼が意味したのは『the numinous 神聖なもの』である。畏怖心を起こさせる力、電気エネルギー、あるいは一人の人間が生活環境の中で、特殊な、際立った、Wholly Other 完全に他のものとして、出会い経験する神の様な存在を意味したのである。今日ならこう言っただろう:「エイリアン」。私が思うに、Otto が実際に書いていたのは自我を越えた意識それ自体のより深い性質についてであった―人間の自我に現れたときは、「Other 他のもの」あるいは「エイリアン」として現れるところの拡大したあるいは宇宙的な精神の一形態。しかしこのことは後に述べることにしよう。 ■
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by bbex243054
| 2016-03-28 16:17
| 科学
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2016年 03月 28日
翻訳続き#78
不運にも、科学が進歩するつれ、この「十分正しい」はますます小さくなっている。我々は今日物質界の95%は完全に見えず我々の未熟な科学には未知であると云われている。我々は「未知のエネルギー dark energy」や「暗黒物質9」については何も分っていない。我々は、広大未知なるものがそこにあることを知っているに過ぎない。じゃあ、5%について我々は何かわかるのか、ですか ? まあ、その大半は気がつくことも出来ませんよね。実際、我々の感覚は電磁スペクトラムの全ての範囲になると駄目ですね。我々はエネルギーや光りからなるこの既存の世界の中で殆ど完全に聞こえず、言えず、見えずなのですよ。宇宙 (the cosmos) に関する殆ど全てのことは我々の進化した (あるいは進化していない) 知覚システムには探知されないもの (occult) である。 『見えるもの』と『あるもの』の間にカットを入れることは、そうすると、数名の故ドイツ人教授からの難解な考えは全く機能しないことになる。それは『宇宙 (the cosmos) における我々の現状』には非常にふさわしい妥当な反映となっているのだ。
9ダークマター【天文】《電磁波による通常の方法では直接観測されない星間物質; 宇宙の質量の大半を占めると考えられている》研究社新英和大辞典第6版 ■
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by bbex243054
| 2016-03-28 13:55
| 科学
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