『JOURNEY OF SOULS』の翻訳 |
依頼人と一緒に私が治療上の作業をすることの最も重要な側面の一つは、彼らを、意識のレベルから、彼らのガイドが人生において役割を果たしていることを認める手助けをしていることである。この教師であるところの存在達はその熟練した指導テクニックで我々すべてを教導する。我々自らが考えたと主張するアイディアは関連するガイドによって引き起されたと言っても差し支えない1。
1 訳註 この記述に関することを以前引用したことがあります。覚えておられる方もいらっしゃると思いますが、それは大谷司完さんの『天使の声』の中の記述:「物の発明と霊界の関係」(昭和5年3月4日見聞録抜粋)の表題の下の61〜66頁の内容です。少し長くなりますがそれを再引用します:
私は指導天使に連れられて、霊界における各境域の状況を見聞していたのである。すると俄に模様をお替えになり、いつの間にか光芒たる平野を横切って、通過していると意識した時には、遥か向こうに霞むようにして丘のあるのが目についたが其の一瞬に、私の霊身ははや丘の麓へと連れられて来たのであって、又直ちに頂上を目がけて登って居るのであった。扨其の頂上から周囲の状況を眺めて見ると、この丘全体が岩石で固められたと申してもよき程に、大きな岩の上にて成りたっていたが、ピラミッドのようではなく、稍楕円形をなしていたのであった。さて其処から見渡した時には一望に展開している平野が、殆ど岩石のみといってもよき迄に、大小育種類もの岩石が起伏せる処であるが、なかには1.8平方メートルから其の倍もあるかと思われる、畳の如き平岩等も沢山ころがっていたのである。以上の如くで少しの土塊も現れていない、この平野の岩石のあい間に、くちなしの木のような灌木類であるとか、芒などが処どころに生えていたのであるが、天使は此の状況を御覧になりながら、稍あって仰せられたのであった。
「かくの如く見渡した処では、此の平野には一人の精霊も住んでおらぬように見えるけれども、実は各所に点在するあの岩石の下に、それぞれ多くの精霊達が居住しておって、あらゆる物の改良や研究または発明などに、辛苦しているのである。今より其の精霊を呼び出して見よう・・・」
と仰せられたのであるが、私としては其の御言葉を承って内心驚いたのであった。何の為に岩の下などに蟹の如くにして住むのであろうかと、不思議に思っていたのである。すると天使が立ち給う平岩の上にて、二、三度も足踏みをされて、呼び出し給うたのであった。
「おーい! 汝等数名の者は、考案いたしたる物を持参して、わが前に出ておいで!」
と仰せられていたかと思うと、不思議にも御言葉の通りに辺りの大岩が、むくむくと動揺をしだしたので見張っていると、たちまち其の岩石が二つに割れたかと思うと、その切れ目から二階への階段を登って来たが如くにして、数人の精霊が地下よりおもむろに現れて来たのであった。然して彼らは各自に玩具のような物を一個づつ持っていたのであるが、とても嬉しそうな顔つきをして、天使の御そば近くに集まって来たのである。
で私は、それとなく彼らの様子を、調べてみたのであるが、一人としてすっきりした者はなく、頭髪や髭は伸び放題であり中には和服の着流しもあれば又、古びた洋服を着ている人もあって、一寸見た時には西洋人とも日本人とも、判別がつけにくいのであった。この様子から察してもさぞかし、彼らは岩石の下にて永い歳月を、黙々として発明に想を練り苦辛を続け、何等かの考案に余念がなかったのであろうと、其の尊い努力が察しられるのであった。従って顔や衣服にも、それが現れていたのであろうと思われたのである。其の時天使は、じっと彼らを御覧になって居られたが、いたわり深い御声にて、いとも荘重に仰せられたのであった。
「此のたびは神界の命によって、諸氏が苦辛になりたる発明品の見聞に来たりし次第であるが、先ず一応諸氏の説明を聴き然して後、直ちに実演をして見せるように、その準備をいたすがよい」
との御言葉があったので、彼らは順次天使の御前へ出て説明することとなったのである。思うに彼らとしては又となき光栄であり、一生一代の喜びごととなった事であろう!
其の時丘の下の方は、いつの間にか大広場となっており、草一本も生えていない立派な運動場と、早替わりをしていたのである。そして説明の終わった人達から、順に広場へ下りて行ったかと思うといつの間にか其の玩具は、想念の延長によって実物大の機械となって据えられてあり、彼等が適当に間隔を取って一列に並んでみせた時には、実にみごとなことなのであった。愈々実演の為に各自が機械の試運転を致しかけたのであるが、その時には静寂そのもののような世界が、一度に響く爆音や機械の動く雑音で耳をつんざくが如くであり、まことに騒々しい情景となったのであった。彼等発明者達の真剣ぶりは、形容出来難いまでに張切っているのであり。実演の為に立ち働く様は、一通りではなかったのである。いよいよ始められるや何れも見事な実演ぶりであり、各自が大成功をおさめたのであるから、天使におかれてもいたく御満足の御様子と拝したのであった。その中でも大きな機械に属するものとしては、水陸両用の船の如き大自動車、お盆の如き恰好をして突き通すような、金属音を発しつつ空中を自由に飛廻る機械、竹トンボに乗り物をつけた様な形をして、其の場から自由に高く飛上がり横行も出来るところのトンボのような飛行機、又小さい部類では狭い道路を自由に走れる豆自動車、一人乗りで腰がかけられ片手でも運転の出来る、簡単な乗り物等であるが、一通りの実演がすむと元の通りに小さな玩具となり、其の時には広場も何時しか消えてなくなり、元の岩石の平野となっていたのであった。然して彼等はいとも満足そうに、天使の御前に整列して御礼を申し上げていたが、直ちにもとの岩穴へと、吸い込まれるごとくにして入ってしまったのである。
思うに、この無限の広い平野の岩石の下には、幾万人の発明家の精霊が蟄居して考案工夫に余念がなく、苦辛をしながら智慧をしぼっているのかと思うと、そのことを考えて見るだけにても、神の御経綸の広大無辺なることに対して、何の言葉もなき次第であった。
以上の如くにして、考案又は発明されたる幾多の機械類が、時を経ていずれは現世に出現するものである事を知って、そのすばらしさに思わず感嘆せしめられたのであった。すべて現世において考案や考察がなされるのは、まず霊界における霊人達の苦辛により、想念的に事物が完成されたる場合には、自己と動揺に現世にて発明に余念なき人間を物色して、適当なる相手を見つけたる場合には、其の人に対して自己の発明品に関する、意念を送達感応せしめ試作的に造らしてみる事になるのであるが、かかる場合における人間の立場は、すべて己の工夫によるものとのみ考えているのであり、精霊よりの意念の伝達を受けているとは、少しも知らぬのである。従ってここという肝腎なところともなれば、現世の人間も又必死の工夫をめぐらすものであり、精霊も又一層強力なる念波を絶えず人間に送って、遂には完成せしめるにいたるものである。以上の如く精霊も人間も互いに知らずに、努力を致し合うているのであって、かくの如きは同気相寄るの理に基づくものであるが、偉大なる発見や発明はすべて、霊人と人間との合作であると申してもよいのである。
以上の如く人間は、神のおはからいにより、精霊を通じて幾多の恩恵を蒙っておればこそ、現世においても文化の恩沢に浴することを得て、人類の幸福を摂受することが出来るのであるが、しかし乍らこれを単に人間の学問的智能に、よるものとのみ誤認して霊界の消息は言うに及ばず、神や精霊の御守護までも否定し去り、言を左右にして迷信の如く罵り、恬として省みざるは一を知って十を知らざる者と言うべく、これ等の人々に対しては神もお笑い遊ばしていますのである。されば御諭しにも「中途の鼻高には神は判らぬが、ずばぬけた学者なら判るように仕組んである」と端的に仰せられているのである。従って現世における文化の根元は、霊界より端を発しているのであって、日に日に進歩発達をとげると共に、やがては現世に移写されることともなり、地上に展開的楽土を建設せしめて、人類社会に真の幸福を招来せしめんが為の、大いなる神の御目的のあることを、覚らねばならんのである。