『The Super Natural』A new vision of the unexplained の翻訳 |
神 (the Godhead) はそのようなものではない。実際、神 (the Godhead) はまったくものではない。だから、この (キリスト教の) 神を越えた神 (the Godhead) に関する Eckhart の最も共通する説明は nicht、即ち『nothing』だった (Whitley が第5章の記述、Gurjieff が非常によく似た20世紀の言葉をどれほど使ったかについての記述を思い出されたい)。そのような挑発で、Eckhart がニヒルな意味で『nothing』を意味したのではなかった。彼が意味したのは、神 (the Godhead) は時間と空間を超越していること、ゆえに何か一つのものとか行為と同一視することはできないということである。神 (the Godhead) は文字通り「ものではない (no-thing)」のである。彼はまた、この「nothing」を『永遠なる今』と触れていることでも有名である。
そのような永遠なる今には自我はない。教授が記しているように、『ヘンリーでもコンラッドでもない』、即ちそこには自我とか個人性はない。勿論、そのような事柄をヘンリーやコンラッドのような自我として理解することは殆どできない。しかし、我々はここで登場している「向こうに置いて言うこと」はよく認めることができる。 Eckhart が聴衆に『神の為に神を捨てる』、即ち、彼らが真の内なる神かつ彼ら自身の魂の源としての神を経験できる為に、神を単純かつ素朴に『外に』いる客観的な一人として考えることを放棄する様懇願するのを読んでも、驚くべきではない16 。今日に於いては、こう言えよう: 我々は超自然のものを投影する必要はない、それを超自然のような自然として、即ち、作られた自我よりも相当深いレベルにある我々として、理解する必要がある―意識そのものとして。
16Maurice O’C. Walshe, trans. and ed., The Complete Mystical Works of Meister Eckhart (Ne-w York: Cross-roads Publising, 2010)、296頁。