『The Super Natural』A new vision of the unexplained の翻訳 |
まず、そのような話し方や考え方をすることで、今やもっと正確になることが出来る、何故なら imaginal 機能の二つの非常に異なったタイプ: 経験的事実に基づいて見ていることなのか、あるいは象徴的に見ていることなのかを区別することが出来るからだ。
次に、もっと寛容になることも出来る、何故なら最も多い手の込んだあるいは怪奇な空想、即ち奇異な光景、が必要であることと重要であることを、素朴な信仰とか余りにも速く退散することなく、今や認識出来るからである。
次に、見えるものが言おうとしていることにもっと心を開くことも出来る。例えば、奇怪なあるいは不思議に見える現象から今や尻込みする必要がなくなる、何故ならそれらは、我々の合理的な自己や通常感覚される経験には馬鹿げているとかとんでもないものに、単に見えるだけだからである。 実際、この新しい見方の imaginal の象徴機能を持つと、その馬鹿らしさは、心と存在の根本的に異なる形態の間にある境界とか敷居を経て翻訳する為の必要な機能であると十分考えるようになろう。その機能を使わないと、農夫が豚と話をしに行くとか書庫の持ち主が飼い猫と話をしに行くということになるでしょう?
最後に、もっと懐疑的にもなることが出来る。多分農夫は豚と意思伝達をそれほどしたくはないだろう。多分2重鏡の反対側にいる存在者は鏡のこちら側にいる存在者とそれほど話をしたくないだろう。2重鏡は我々の社会にある為のもの、見る者を見られるものから隠す為の、直接かつ邪魔をされることなく二通りに見させない為のものでは、ないでしょうか?