『The Super Natural』A new vision of the unexplained の翻訳 |
Reductive comparison (縮小的比較法) は右から左に、即ち現在の世界観から過去の世界観に、動いてゆく真っすぐな矢として描くことが出来る。Religious comparison (宗教的比較法)は左から右に、即ち過去の世界観から現在の世界観に、同様に動いてゆく真っすぐな矢と考えることが出来る。逆向きの矢を想像してみると、これらの比較法は本当はお互い違っていないと思われる。そのことは別の言い方をすれば、反対向きになると、それらは同じ間違いをするということである。
方法はこうだ。
Reductive comparison (縮小的比較法) は Erich von Däniken、 Chariots of the
Gods? (1968)の著者、と彼の信奉者の様な人物に最も良い実例を見る。この種の比較法は無批判に現在の西洋の世界観が正しくて完全であるのは当然としており、従って過去の宗教的現象はすべて最新の西洋の科学的世界観から唯一正しいと理解されるものの誤った解釈と看做すのである。この比較法が「reductive 縮小的」というのは、それが過去の世界観の外観または誤れる真理を現在の世界観のより完全でより深い真理に縮小する、という意味である。
現代の西洋の世界観はここ1世紀そこらの間 (より大きな絵の中の単な瞬きあるいはウインクだが)「高度な補助手段の道理」と呼ばれるものに支配されている、そう呼ばれる理由は、その世界観はすべてのことを高度な補助手段即ちテクノロジーに転換したいという思想だからである。この世界観は唯物論的かつ機械論的、即ち、現実のあらゆる物は物質にすぎず(これが唯物論の役割)、この物質は機械の様な数学的法則によって作用する (これが機械論の役割) と強く主張する。この世界観は一般にこうも主張する: 現実について何かを知るのに唯一信用出来る手段は科学的方法によって行うことである、特に数学を用いてである。何かが『対象』即ち『物』に転換され、複製され、実験室でコントロールされて測られる (即ち数または数学形式が割り当てられる) ことが出来ないときは、それは現実にはあり得ない物である従って注意または敬意を払う値打ちのないものであると考えられることになる。これはいささか誇張であるが、それほど大げさな誇張ではないのだ。