HAMLET' S MILL の翻訳(『THE KEY』に関連して)#523 |
ubicumque gestarumである。Pierre d’Ailly はプトレマイオスとは彼の天体座標を台無しにすることにより全く異なっているが、アエネアス シルビウスのほうは収集、曖昧な miroir historial にすぎない。けれどもこれらは、コロンブスが彼の地図よりももっと信頼した書物なのである、正しくそうなのである。トスカネッリ54 の (リスボン大聖堂の司教) マルティンス宛の有名な手紙ですらマルコポーロの日本を強調してそれを千マイル東にあるとしているにすぎない; そのことが、死ぬまで太平洋の存在を怪しむことは決してなかった淋しいジェノヴァ人(コロンブス)を少なくとも勇気づけて、彼がキューバを発見している間も日本の黄金の宮殿を探させたのである。彼の、決して決して存在しない陸地、自分で創作した St. Brandaen 島は彼の心の中ではカナリア諸島55とプレスタージョン56 帝国の間のアフリカを背後にしたどこかにあったに違いない、それが 彼のアメリカ発見の弾みに十分なったのである、あるいはむしろ、彼が神話に熱中したこと、エデンの楽園とそのナイチンゲール鳥に絶えず熱中したことからその発見をさせたといえる。
53《ピウス二世 (Pius II) (1405-1464) の文学上の名》研究社新英和大辞典第6版
54 訳註 以下はウイキペディアからの引用:
イタリア・フィレンツェの地理学者・数学者・天文学者。フィレンツェ(フィレンツェ共和国)で生まれ、パドヴァ大学で数学を学んだ。1474 年に地球球体説を主張し、クリストファー・コロンブスに影響を与えたとされることがあるが、実際にはその 150 年以上前に書かれたダンテの『神曲』地獄篇に地球球体説を前提とした描写が見られる:フィレンツェで医師の息子として生まれた。パドヴァ大学で数学を修め、1424 年には医学博士となった。トスカネッリは、いくつもの彗星を観測し、それらの軌道を念入りに計算したことで知られる。彼が観察した彗星には1456 年のハレー彗星も含まれる。その長命、知性、広範な好奇心によりトスカネッリはルネサンス初期のフィレンツェにおいて、知識階級の中心的人物となった。彼の友人には、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂を作った建築家フィリッポ・ブルネレスキ、哲学者のマルシリオ・フィチーノらがいた。「万能人」レオン・バッティスタ・アルベルティとも面識があった。優れた知識人であり人文主義者の走りでもあったニコラウス・クザーヌスとは親友であった。クザーヌスは 1455 年に数学に関する短い論文 2 本をトスカネッリに捧げており、1458 年の対談 ” De quadratura circuli ”(円積問題について) では対談者にトスカネッリを選んでいる。トスカネッリとクザーヌスは、フィレンツェとローマの知識人のネットワークに加わっていたようである。彼ら(フランチェスコ・フィレルノ、トラブゾンのジョルジオ、人文主義者ニコラウス 5 世、アルベルティ、ブルネレスキ) はギリシアの数学を研究していた。1439 年、バーゼル公会議のためイタリアを訪問していたギリシア人哲学者ゲオルギオス・ゲミストス・プレトンから、古代ギリシアの地理学者ストラボンのことを知る。その時までイタリアではストラボンの広範な旅行、著作、地図については全く知られていなかった。1474 年にポルトガルの友人フェルナン・マルティンス(リスボン大聖堂の司教)へ送った手紙と地図では、西回りで香料諸島やアジアに行く計画が詳細に述べられていた。マルティンスは国王アフォンソ 5 世の元にその手紙を持っていった。現物は失われたが、後に筆写版を入手したクリストファー・コロンブスは、航海にこれを携えていったという。トスカネッリが地球の直径を小さく見積もる誤りを犯したことは、コロンブスがアメリカ大陸をアジアと誤解する原因となった。
55《アフリカの北西岸沖にあるスペイン領の群島; 面積 7,273 km2; the Canaries ともいう》研究社新英和大辞典第6版
56《中世に Abyssinia またはアジアに強大なキリスト教国家を建設したと言われる伝説上の聖職者王》研究社新英和大辞典第6版