『The Super Natural』A new vision of the unexplained の翻訳 |
この特別な遭遇の深刻さと自身専門家としての歴史研究の両方から書きながら、彼はそのとき西洋の哲学思想と宗教思想の歴史にある『球状の存在』、『火球の物語』、そして『球体をした魂』について素晴らしい比較研究と哲学的分析を書いているのである。ここで彼は、光輪、全知の目、円運動しながら光る魂の輪、輝く泡、そして人間の形をした球状の容れ物あるいはエネルギーの輪―非常に多くが『魂が球体をしていること』を論じている。ここから、エゼキエルに目撃された様な姿形の幻視 (彼の見た二輪戦車33 の幻視では目が一杯ついた『内部に車輪のある車輪 (wheels-within-wheels34 )』の記述が含まれている); 完全な魂は球形であると想像した新プラトン主義者達; 丸い魂が成長した胎児の中にどうやって入るかという光景を含めて信じ難い程詳細な幻視体験を報告した、中世の女性大修道院長、ヒルデガルト・フォン・ビンゲン35(1098-1179); ダンテの有名な神曲 (Divine Comedy)、そこでは天国で『100個の小さな球体 (cento sperule)』のような魂の光景と、神経外科医 Eben Alexander 博士によって最近報告されている様に、現代の臨死体験が記されている、これらがうまれている。Paul も他の宗教伝説を、例えば現代のヒンズー教の霊的教師 Swami Mukta-nannda(1908-1982)を擧げて話している。Swami Muktanannda は自身の瞑想経験から、聖なる自我 (Self) は『青いパール』である36 と教えたことで有名である。
33 chariot
34訳註 この表現から、これは確かに UFO を2千年以上前に目撃した人の出来た最良の表現と思われる。因みにこの「chariot」は、古代ギリシアローマの戦争・凱旋・競走などに用いた馬車で, 御者は立ったままの二輪戦車のことです。映画で見た覚えのある方も多いのではないでしょうか。現代の言葉で云えば『最新式の戦車』に相当するマシーンです。エゼキエルの時代の科学知識ではそのように表現するしか他に方法はなかったのは当然だと思います。
35 訳註:ウイキペディアからの引用:
中世ドイツのベネディクト会系女子修道院長であり神秘家、作曲家。史上四人目の女性の教会博士。40 歳頃に「生ける光の影」(umbra viventis lucis)の幻視体験をし、女預言者とみなされた。50 歳頃、ビンゲンにて自分の女子修道院を作る。自己体験を書と絵に残した。医学・薬草学に強く、ドイツ薬草学の祖とされる。彼女の薬草学の書は、20 世紀の第二次世界大戦時にオーストリアの軍医ヘルツカにより再発見された。才能に恵まれ、神学者、説教者である他、宗教劇の作家、伝記作家、言語学者、詩人であり、また古代ローマ時代以降最初(ギリシア時代に数名が知られる)の女性作曲家とされ、近年グレゴリオ聖歌と並んで頻繁に演奏され CD 化されている。神秘主義的な目的のために使われたリングア・イグノタという言語も考案した。中世ヨーロッパ最大の賢女とも言われる。
1141 年、神の啓示を受けたとして、フォルマールと腹心の修道女リヒャルディス・フォン・シュターデの援助の下、『道を知れ』 (Scivias) の執筆を開始し、自らの幻視体験(後の彼女自身の言葉によれば「生ける光の影」を初めて公けに表明し、この頃から彼女の幻視体験がマインツ大司教ハインリヒの知るところとなる。
1147 年、クレルヴォーの大修道院院長で、当時宗教界に非常に大きな影響力があった聖ベルナールに助言を求めて書簡を送る。同年、教皇エウゲニウス 3 世によって開かれたトリーアの教会会議において、ヒルデガルトの幻視体験がマインツ大司教ハインリヒによって俎上に載せられる。教皇使節が彼女の許に派遣され、執筆途中の『道を知れ』を持ち帰り、教会会議上でそれが披露され、多くの人に感銘を与えたとされる。この時同席していた聖ベルナールの取り成しもあって、教皇より執筆の認可が正式に彼女に与えられ、これによって彼女の名が広く知られるようになる。また、この頃から典礼用の宗教曲を作詞作曲し始める。彼女の作曲した典礼劇『諸徳目の秩序』は、作者の知られた典礼劇そして道徳劇としては最も古い。ヒルデガルトはユッタからプサルテリウムの演奏の手解きを受けており、合唱の伴奏楽器として使用したと思われる。彼女の名声によって各地から修道女が集まり手狭になったため、1150 年にビンゲン近郊のルペルツベルクに新しい女子修道院を建設して移る。 ビンゲンとライン川の支流ナーエ川を挟んだ対岸の丘陵地は、ザルツブルクのベネディクト会修道士聖ルペルトの一族の所有地であり、その聖遺物が納められてルペルツベルクと名付けられた聖地であった。ヒルデガルトが新しく建設する女子修道院をこの地に定めたのは、聖ルペルトがドイツ圏で初めて女子修道院を建設した人であった事が念頭にあったと思われる。翌年、『道を知れ』が完成した。1158 年から 63 年にかけて、 ドイツ王国各地へ 3 回の説教旅行を行い、1150 年代後半にはインゲルハイム宮廷 にてフリードリヒ 1 世・バルバロッサ(赤髭王)に謁見した。バルバロッサからは 1163 年にルペルツベルク女子修道院に対する皇帝による保護の勅令が出される。
1165 年にアイビンゲン(Eibingen)に庶民階級のための新しい修道院を建設する。アイビンゲンはビンゲンとライン川を挟んだ対岸の、現在リューデスハイムと呼ばれる丘陵地帯に位置する。1167 年から 70 年は病床に臥すが、70 年から翌年に再びドイツ王国各地へ説教旅行を行った。
1173 年にフォルマールが死去し、後任に就いたザンクト・ディジボード男子修道院のゴットフリートはヒルデガルトの『生涯』を執筆開始する。が、1176 年にゴットフリートも死去し、翌年、ヒルデガルトとかねてから文通し共感していたベルギーのガンブルー修道院出身のギベール・ド・ガンブルーが彼女の秘書となり、『生涯』を追補執筆する。
1178 年、破門された貴族を保護し、その死後同修道院敷地内に埋葬した件で、マインツの司教座聖堂参事会員達との間で確執が起こり、マインツ大司教クリスチャンよりルペルツベルク女子修道院に対し聖務停止(聖体拝領の禁止、聖歌唱の禁止)の禁令が出される。翌年 3 月禁令が解かれるが、同年 9 月 17 日に死去した。
36Paul Marshall, The Shape of the Soul (ynpublished manuscript), chapter 5,『Soul Spheres』