『The Super Natural』A new vision of the unexplained の翻訳 |
私は、我々が生まれると時間の中をゆく旅は本当に人生の中心なのだろうか?、と不思議に思う。もしかしたら我々のもっと本当の存在は時間の外に存在する定常状態―このような束の間の人生の間に集める経験で養われている―なのかもしれない。我々は時間の河岸辺りにいる漁師である。物質の状態に追い込まれている我々の部分はもう未来や過去を知ることはない、だから我々の再奥にある清浄さ、我々の真実、から外れた行動をとるのである。我々、河岸の釣り人は、人生の目新しさや誘惑に反応する仕方によって我々が本当は何者なのかを発見する経験を働かす為に、人生の流れの中に自分自身であるところの身にこたえる餌を投げ入れているのだ。
しかしこの自己探求が悪い知らせを持ってくるとしたらどうだろう? 邪悪なものになる―例えば、自らを人生に投げ入れて、そこで自分自身がナチスの黒い制服を着ている、あるいは無慈悲な親とかある種の犯罪人になるのを座って観察している―としたらどうだろう? 結局、まったく単純に、ひどい者になるとしたらどうだろう?
その問題に付属しているのは重大な誤りのモラルの曖昧さである。もし人生が肉体とともに終わるのではないとしたら、我々の行為の結果を最も注意深く扱うことが賢明であると思われよう。もし我々の記憶が我々と一緒に旅をするのならば、思い出すことを楽しむ人生を送ることが並外れて重要なことになろう。