『The Super Natural』A new vision of the unexplained の翻訳 |
On Fear and Ecstasy One Last Time
ここでもう一つ言うべきことがある。それは数年前私が、 Whitley とではなく、アンとした会話に遡る。我々はあるラジオ番組の為に誘拐経験の混乱する二重の性質、即ち、それらがどれほど極めて肯定的に、または極めて否定的に、あるいは肯定的であると同時に否定的になりうるか、の準備をして議論していた。宗教の歴史における神聖なものが 2 重の性質のあることを説明した後に、 私は最良のゲストのアンと、何故、聖なるものとのコンタクトを恍惚とさせ変化させるものとして経験する人達がいる一方で、それ以外の人達は聖なるものとのコンタクトを恐ろしくて破壊的なものとして経験するのかについて意見を交換した。
それは一つの考え方にすぎない。私には分らない。私はここで非常に謙虚でありたいと思うがその複雑さは強調したい、それらを一組の単純なものにして片づけたくない20 。それでも、ここに確たる思想がある。私がアンに表現したことは、この不思議な両方性は人間の自我の大きな機能かも知れないそして特別な自我はそれ自身を解放する準備をしていないかどうか、ということである。自我が解放する準備をしている時は、神聖なエイリアンとか他の世界の者との遭遇を極めて肯定的に、贖罪的に、恍惚的に経験することになるらしく思われる。他方、自我がそれ自身を解放する準備をしていない時は、神聖な者との遭遇を極めて否定的に、恐ろしいものに、破壊的に経験することになると思われる。このモデルでは少なくとも、魔物は我々の恐怖の投影、これ等の恐怖を越えた我々の特性からくる天使なのである。勿論、その同じ自我は異なった段階の中を、最初の恐怖を愛情のこもった交流に変形させて、移動することができるのである。これが私の、Communion と、勿論、 Whitley の神秘的な人生の全軌跡、の読み方である。
20 私はここでその可能性について追求することはできないが、本物の『demons』、即ち、否定的な精霊達あるいは攻撃的で、目に見えない種族が、回りの環境にいるかもしれないという可能性は拒まないでおきたい。人類史のいたるところ人々の経験になっている、現象学的カットが、我々がそのような経験を真面目にかつ好意的にとるように要求する。時々悪魔の経験に最も適切な対応がされるが、それは一教授の理論ではなくて悪魔払いなのである。そうはいっても、ここにはモラル上の知的な豊富な複雑さが、心の病の可能性のあるものからその他人々の宗教経験を歴史的に悪魔呼ばわりしたものまで、ある