『The Super Natural』A new vision of the unexplained の翻訳 |
我々が昔所有していた cabin でだが、夜が深まるにつれて、梟達がしばしばやって来て家の回りの樹々に立っていた、時々我々の目の前で餌食を正確に捕らえていた。アンが我々の本の読者の手紙を分析し始めると、我々が生活の中で梟を経験した近接遭遇の唯一の証人ではないことが明らかになった。
私はこの現象に魅惑され、その時それが単なる不気味な神秘の類いではなく、言語と同じように非常に豊富にあると理解することができると感じた。
そう理解する為には、まず、それを伝えている、それもかなり言われていることに集中している出版物から取り出す必要がある。そうでなければ、始める前に止められるだろう、何故これが起きるのを確かめる方法がないから―即ち、誰がそんなことを言っているのだということになる。これは人間の経験が始まって以来我々がとってきたアプローチの仕方である。この時代のずっと先から、どの動物、どの樹、どの石が神のものなのか、そしてその関係は何を意味するのかについて何千もの判断が下されている。ごく最近、我々は、近接遭遇の文脈の中にある梟の外見は意味のないことだと言っている、何故なら近接遭遇自体が自明な民話になるからである。
けれども、歴史を眺めると、民話を無視することはおそらく賢明ではないことになろう。それは信仰体系の中に取り入れられる傾向が強くあり、我々人間は信仰を取り扱うのに難儀する。信仰をだめにしている。
近接遭遇の証人の中では、梟は『スクリーンメモリー』、即ち、実際にそこにあったものを覆い隠す異常なもの、非常に不思議なものだった、の記憶であると信じられている。これはフロイトの使い方と全く同じではない、彼の場合は、実際の記憶がより深く、望まないものに覆いを張るとされている。この場合のスクリーンメモリーは、実際のものではなくて、おそらく催眠によって目撃者の記憶に導入された作り事である。