HAMLET' S MILL の翻訳(『THE KEY』に関連して)#435 |
以上偉大なパンから長い道のりであったが、チベリウス皇帝の時代に消え去ったとされているところの者または物は、誰かまたは何かはまだ明らかになっていない、即ち、どのパンのことか明らかになっていないのである。Creutzer70 はすぐさま彼はシリウスだと主張した―しかも Creutzerから提案されることは何であれ今なお大きくのしかかっている―シリウスは一等星であり古代天文学で最も重要な星である。さらにアリストテレスはこう云っている(Rhet. 2. 24, 1401 a 15)、「犬」の活動を制限したい時は、『Dog-Star(シリウス)』またはパンを使うことが許されていた、と。何故なら、ピンダロス71はアリストテレスに「偉大な女神が姿を変えて犬になっている(O makar,honte megalas theou kyna pantodapon kaleousin Olympioi)72」と述べているからである。しかし当分はこれで十分すぎるほど十分である。八番目の惑星73 、さながら惑星のリーダー、としてのシリウスの驚くべき意義、そして、3つの世界を統治している74、真の kosmokrator と同様にダンスの達人であるパンの驚くべき意義、それらについては本壱冊分になる。重要な点は、シリウスの異常な役割は愚かな高位聖職者の空想の産物ではなくて天文学上の事実だということである。エジプト3000年の歴史全体の間にシリウスがユリウス暦の2月20日の日に四年毎に太陽と同時に昇ったのである。言い換えれば、シリウスは歳差運動には影響されなかったということである。そのことが、シリウスは他の星々の中でたった一つの不動の星であるとの確信をもたらしたに違いない。ゆえに、シリウスが出なくなる時、偉大なパンは死んだことになるのである。
70Symbolik und Mythologie der Alten Völker (1842), vol. 4, pp. 65ff.
71《518?-?438 b.c.; ギリシャの合唱歌詩人; Epinicia 「祝勝歌」》研究社新英和大辞典第6版]
72プラトンの Cratylus 408B を参照されたい: (以下の『原註略』)
73Creuzer は Pan-Sirius を Eshmun/Shmun、「8番目の」、Chemmis の偉大な神としている。
74以下の、パンへのオルペウス教讃歌(no. II; 讃歌 34.25 も参照されたい)と比較されたい: Pana kalõ krateron, nomion, kosmoio to sympan/ ouranonẽde thalassan ide chthona pambasileian/ kai pyr athanaton · · · Echousphile · · · pantophyẽs, genetõr pantõn, polyõnyme daimon/ kosmokratõr · · ·. エコー(空気と土との間に生まれた森の精 (nymph); Narcissus に恋慕したが, 顧みられないので身はやせ細って, ついに声だけが残ったといわれる。研究社新英和大辞典第6版)に対するパンの愛に関して、マクロビウス(Sat. 1.22.7)はそれを天体の調和であると次のように説明する:「quad significat harmoniam caeli, quae soli amica est, quasi sphaerum omnium de quibus nasciturmoderatori, nec tamen potest nostris umquam sensibus deprehendi. それは、天の調和を意味し、天体の謂わば唯一の友人だけのものである。彼はなによりも生まれつきのガイドであるが、如何なる時にも我々の感覚ではいまだに検知されることは出来ない。」しかし当時マクロビウスは陽光に映えた神話学者の中でも第一級の学者だったが、土星、木星そして他のどれも、パンを含めて、太陽であると主張したのである。それは、天体の調和であるエコーそのものではなくシューリンクス (Arcadia の川の精 ; 自分を慕って来るパン (Pan) から逃れるため葦に化したが, パンはそれを手折って panpipeを作ったと伝えられる。研究社新英和大辞典第6版) である―パンは愛するエコーが変身した葦からそれを作る―そしてパンのパイプの 7 個のリードというのは 7 惑星のことであり、最も近いのが月、最も遠いのが土星である、と主張している。(考慮に値するのは、中国においては、エコーは影の音の出るペンダントであるから、柱または樹の下、世界の正に中心、kien-mu(看木)、ではエコーも影もないのだと理解されていたことである。)